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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [1]




「久しぶりだ」
 栄一郎(えいいちろう)の声は深く緑に馴染む。皺枯れてはいるがきれいなバリトンだと、瑠駆真は思った。駅舎のある公園に子供の声が響く。心地良い午後。
「手に入れておきながら、来るのが怖いとずっと思っていた。こんな事を言っていたら、きっと早苗(さなえ)さんに叱り飛ばされてしまう」
 言いながら表情は楽しそう。
 叱り飛ばされる。
 瑠駆真には想像もできない。
 母は、瑠駆真を高千穂の祖母の元へはほとんど連れては帰らなかった。小さい頃の事だからほとんど覚えてもいないが、母娘(おやこ)はあまり仲が良かったとは言えないように思う。そもそも母の初子(はつこ)は高千穂という場所をド田舎だと嫌っていたように記憶している。
「そうか。早苗さんは女手一つで娘を」
 祖母の早苗がどのような経緯で離婚し、高千穂という田舎で娘の初子を育てる事になったのか、その詳しい事情を瑠駆真は知らない。ただ、今の世の中ならまだしも、祖母の時代では世間の目もあっただろうし、経済的な問題もあっただろうから、かなり思い切った行動だったのかもしれない。女は浮気をされても泣き寝入りをするしかなかったと聞く。祖父が浮気をしたのかどうかなんて、そんな事は知らないけれども。
 僕、本当に何も知らないんだな。
 呆れながら、なぜ母は教えてはくれなかったのだろうかと疑問にも思う。
 教えたくはなかったのだろうか? それとも、そもそも母も、祖母からは何も教えてもらってはいなかったのだろうか? 僕が母から父親について、ほとんど何も教えてはもらわなかったのと同じように。
「苦労されたのだな。せめて、もう一度くらいは逢いたかった」
 目を細める車椅子の老人は、そこでフッと笑みを漏らす。
「もっとも早苗さんの方は、ワシになどはもう会いたくもなかったのかもしれないがな」
 富丘の豪邸で、木崎と瑠駆真の話を、栄一郎は立ち聞きした。それは本当に偶然で、高千穂という言葉を耳にしなかったら、そのまま素通りしていたはずだ。そもそも、耳の遠くなった栄一郎が、なぜ扉を隔てた向こう側にいる瑠駆真の、大して大きくもない声を聞きとる事ができたのだろうか?
「栄一郎様っ」
 体勢を崩した栄一郎が出した物音に、木崎も瑠駆真も目を丸くした。
「大旦那様。栄一郎様?」
 木崎は驚いて歩み寄る。だが、立ち聞きなどといった行動を咎めるような事はしない。
 使用人が主人の行動を咎めるような事など、しないのが当たり前なのかもしれないが、木崎の表情は、ただ主人の存在に驚いているだけというのとは、少し違っているようにも見えた。
「栄一郎様、もしや、今の会話を」
「木崎、この者は?」
 言葉を遮るように、まるで会話のどこかへと押しやるように栄一郎は唸り、半ば強引に車椅子へと座らされながら、瑠駆真を注視している。その視線をたどるかのように、木崎も瑠駆真を振り返った。
「山脇、瑠駆真様と申されます」
「山脇」
「慎二様のお知り合いですよ」
「慎二の?」
「えぇ、さほど親しいというワケではないようなのですが、今日は慎二様を訪ねていらっしゃいました」
「あのバカ小僧も、時には役に立つものだな」
 そんな呟きに、木崎は声を潜める。
「そう決めるにはまだ早すぎます。同姓同名の人物など、この世にはいくらでもいます。それに早苗様はご結婚されたはずです。ですからご苗字は」
 そうして、ワケがわからぬまま静観している瑠駆真へと向き直った。
「こちらは霞流栄一郎。慎二様の祖父にあたる方です」
 一度会った事がある。去年の、夏だった。美鶴と連絡が取れなくなって、聡と二人でこの屋敷にやってきた。霞流慎二に絡むような口調から、嫌味な年寄りとだいう印象を受けた。
「お祖母様は早苗様というお名前だと先程おっしゃいましたが」
 木崎が慎重に口を開く。
「ひょっとして、お若い頃、この辺りで働いていたというお話を聞いた事はございませんか?」
「え? 祖母が?」
「はい、この辺り。愛知県の、できれば知多辺りで」
「知多」
 瑠駆真は首を捻り、記憶を辿った。

「おばあちゃん、昔、この辺りの工場で働いていたのよ。紡績だか製糸工場だかで」

 それは本当に小さい頃。
「知多って辺りだったと思うわ」
「ちた?」
「そう、あんまり都会じゃないけれど、でも高千穂よりかはずっとマシなところ。あなたも小さい頃に住んでいた事があるのよ。覚えていない?」
 首を横に振る息子を見ながら、そこで母は溜息をついたはずだ。
「それがどうして高千穂なんかに戻っちゃったのかしらね。こっちにそのまま残ってくれればよかったのに。こっちで私を産んでくれれば、そうしたら」
 その先を、瑠駆真は覚えてはいない。母は祖母の話となると愚痴っぽくなった。聞いているこちらまで気が滅入る。
「知多の、工場」
 呟くような瑠駆真の言葉に、木崎は生唾を呑んだ。傍らの車椅子の老人を見下ろす。
「あの当時、知多には工場などいくらでもありました。同じ名前の女性だってきっと」
 だが、早苗と同じ名前の女性などはいなかったはずだ。もしいたらきっと人の噂に(のぼ)っていたはずだ。だって、あのような大事(おおごと)を起こした女性と同じ名前なのだから。
「あの、お二人は祖母をご存じなのですか?」
 なんだか自分の知らないところで話が進んでいるようで、瑠駆真はなんとなく気分が悪い。
 少し咎めるように聞いたのだが、栄一郎も木崎もそれには答えなかった。代わりに少し間を置いてから、絞り出すように栄一郎が声を発する。
「早苗さんは、お元気かな?」
「亡くなりました。だいぶ前です」
 栄一郎は天井を仰いだ。大きく息を吸い、上を凝視し、やがて目を瞑って、ゆっくりと長い時間をかけて息を吐いた。
「そうか」
 そう答えたのは、瑠駆真の返事を聞いた(のち)、たっぷり三分ほど経ってからの事だった。
 何を聞いても今は無駄か。
 なんとなく雰囲気を察し、昔の思い出でもあるのだろうかと少し冷めた感情で二人を見ていた瑠駆真に、栄一郎は向き直った。
「一緒に、来ていただきたいところがあるのだが、これから時間はあるかな?」
 そうして瑠駆真は真留(まこどめ)駅へと連れてこられたのだ。
 古い路面電車の駅だと教えられた。中には、路面電車全盛期だった頃の思い出を偲ぶ写真がパネルとなって飾られている。だが瑠駆真にとってここは、美鶴との毎日の貴重な時間を過ごすための場所であって、古き昔に思いを馳せるような場所などではない。
 美鶴を探しているのに、どうしてこんな事に。
 戸惑う瑠駆真を連れだって、栄一郎は車椅子で中に入った。
「久しぶりだ。本当に懐かしい。思えば、この駅舎を手に入れた時以来、来てはいなかったな」
 壁のパネルの一枚一枚をゆっくりと眺め、その一枚を見つめたまま口を開いた。
「もう察しているのだろうが、ワシと早苗さんは恋仲でね」
 そこでなぜだか自嘲気味に笑う。
「もっとも、熱を上げていたのはワシだけだったのかもしれないがね。それでも、あれは間違いなく恋だったのだと思っているよ」
 この恋以上に大切なものなどこの世には存在しない。そう思わせるほどの、情熱。
「でも周囲には認めてはもらえなかった」
 栄一郎は工場の跡取り息子。片や早苗は九州から集団就職でやってきた、ただの工婦にすぎなかった。







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